紫陽花の咲くころに

読書や映画鑑賞の記録など、つらつらと。

「恐怖」とは。 

 「恐怖」の正体とは一体なんでしょうか。恐怖には様々な種類がありますよね。例えば、地震とか戦争や病気など、生命に危機を及ぼす事象などです。他にも奥さんが怖いとか上司が怖いとか、人間関係にまつわるものなどは、わりと通常の生活で感じやすいですよね。

 

 なぜ突然、このような哲学的()なことを言い出したかというと、選挙における投票率の低さと「恐怖」に少しばかり関係があると考えたからです。

 私たちは「恐怖」という感情について、上記のようなイメージを持つことが多いと思います。その場合、「恐怖」の大元には、「わからない」という感情が影響しているのではないでしょうか。

 違った言葉を話す人々や、意味の分からない難しい言葉を使う人って、自分にとって味方なのか敵なのかわかりません。

 言葉の意味がわからない以上、どのような行動を起こすかも未知です。状況によっては、危害を加えてくるかもしれません。

 地震などはいつどこで起きるかわかりません。不確定要素というのは恐ろしいものです。

 

 今回の参議院選挙は開票結果が完全に出ていないので、断定はできませんが投票率が微増するかもしれません。しかしながら、投票率の低下傾向に歯どめを掛けるほどにはならないと思います。

 なぜ、私たちは投票に行かなくなってしまったのでしょうか?

 かつては、企業や業界団体のほか宗教団体など、自分の所属する組織の指示にそって投票した人が多く、特に考えずに投票した人々もいたと思われます。

 現代では、そのような組織からの投票依頼を気にしない人々が増え、その結果、投票率が低下したと私は考えます。

 では、投票に行かない原因とはなにか。それは政治家や専門家に「恐怖」を感じるからです。

 政治の領域で語られる、様々な課題というのは、どうしても一般の人には難しい内容となります。仕事や子育てに介護など、多くの有権者は多忙を極めています。そのような日常を送りながら、高度な政策や課題について調べることは容易でありません。

 そうなると、政治家や専門家が主張する政策などは、有権者が普段聞きなれない内容が増えます。すると、有権者から見たときに、政治家や専門家とは理解できない言葉を用いる人々ということになります。

 繰り返しとなりますが、「わからないもの」は怖い。それは同時に信用の欠如につながります。自分が一票を投じた候補者が、確実に良い政治を行えるのかは定かでありません。

 結果として、容姿や雰囲気などイメージを基準に判断することになります。あるいは政治に背を向け、投票に行かない人々も生じます。

 

 以上の私の検討は詰めが甘く、見直すべきところが多々あると思いますが、今回の選挙で投票した有権者の声に耳を傾けると、このように感じずにはいられませんでした。

 

 人生には「恐怖」は付きものです。地震や病気のリスクから逃れることはできませんし、いつ発生(発症)するかも予想できません。

 それでも私たちは「恐怖」から逃れることはできません。同じように、政治や政治の舞台(国会・議会など)で下される判断から、逃げることもできません。

 

 今一度、私たちは勇気をもって、「恐怖」と向き合わなければいけないのかもしれません。