紫陽花の咲くころに

読書や映画鑑賞の記録など、つらつらと。

媚びへつらうこと。

 今朝方は激しい雨の音で目を覚ましました。まだ早い時間だったので二度寝したのですが、今度は7時ごろの地震で起きてしまいました。最近地震が多いのでとても心配ですね。

 

 さて、昭和を象徴する名司会者がまた一人、この世を去りました。

タレントの大橋巨泉さん 死去 | NHKニュース

 平成生まれの私は、大橋巨泉さんへの直接の思い出というのはないのですが、TVの特集で巨泉さんが述べていた発言が印象に残りました。それは「最近のTVがつまらないのは、高いところにいないからだ」というものでした(うろ覚えなので細部は間違っているかもしれませんがあしからず)。

 つまりTV番組というのは、大人の遊びの部分を出さなければつまらないということのようです。確かにドキュメンタリーや難しい番組ばかりではなく、息抜きに見れるようなバカ番組の方が楽しいですよね。

 子供からすると、少しエッチな番組や酒・たばこ・ギャンブルなど、子供にとって害悪とされるものを取り扱う番組の方がわくわくしますからね。

 

 最近のテレビ番組(中でもクイズ番組)をつまらなく感じてしまうのは、なんとなく視聴者に媚びへつらってる感じがするからではないでしょうか。媚びへつらう人ってみっともないしかっこ悪いですよね。

 いまは過剰な苦情や自主規制など、世の中をつまらなくする要素に満ち満ちていますからね。もっと余裕をもてる社会になった欲しいのですがね。

 

 媚びへつらうと言えば、今月31日投開票の東京都知事選挙に出馬した某候補ですが、原宿の町でクレープを食べたり、ラグビーの五郎丸選手のポーズを真似するなど、若者層取り込みに余念がないようです。

 いい年した大人の若者への媚びへつらい(迎合)ってみっともないですよね。選挙後に若者を支援するような政策は望めない以上、選挙対策のパフォーマンスととられても仕方ありません。

政治の本質

 17日の夜に、トルコでクーデタが発生しました。結果を申し上げれば、クーデタは失敗に終わり、軍人3000人・司法関係者3000人の合わせて6000人ほどの「反体制派」が拘束されました。

 初めに言い訳をしてしまうと、私は中東政治に関して何も知らない素人です。その立ち場からすると、偉そうなことはそうそう言えません。

 しかし、あえてここで論じるとすれば、今回の一連の出来事は、政治という営みが基本的には生々しくも激しい権力闘争であることを表しています。

 クーデタは、大統領の居場所を把握していないなど、反乱軍の計画の稚拙さもさることながら、結果的にエルドラン体制の強化をもたらすことにつながりそうです。

 トルコ軍は「建国の父」ケマル・アタチュルク以来の国是である「世俗主義」の守護者を自任しているようですが、今回の出来事はトルコ国民におけるイスラムへの信用をますます増大させるのではないでしょうか。

 エルドラン大統領は反体制派を次々と拘束し、死刑制度の復活も検討するほどの厳しい対応を示唆しています。今回のクーデタ未遂を、反体制派粛清の好機と考えていることは明らかでしょう。

 民主主義に基づいて選ばれた元首の名のもとに、クーデタを鎮圧したエルドラン政権ですが、今後の国家運営において非民主的な活動が予測されるとはなんという皮肉でしょう。

 西洋の生みだした民主主義は、基本的にキリスト教圏で成長してきたシステムです。少なくとも近代民主主義とキリスト教圏以外の地域での両立を、考え直す必要はあると思われます。

SEALDsはなぜ若者から支持を集めることができなかったか。

 参議院選挙から早くも一週間が経ちました。自公をはじめとする、いわゆる改憲勢力が衆参共に3分の2の議席を確保したことで、憲法改正が現実の政治日程にのぼることになりました。

 しかしながら、世論の関心は7月31日に投開票される東京都知事選挙に向かってしまい、憲法改正に関する議論は選挙前と大きな変化はないように思えます。

 今回の参院選において、初めて18歳・19歳の若者に選挙権が付与されました。野党勢力は、改憲勢力に3分の2を取らせないことを旗印に結集しましたが、選挙結果は自民党をはじめとする改憲勢力の勝利に終わりました。

 党内に改憲派を抱えながら、共産党社民党に協調することで、民進党は前回参議院選挙の獲得議席である17議席を超え、32議席を獲得することができました。

 要因としては、参議院選挙の選挙区選挙の内、32ある一人区で民進・共産・生活・社民の野党4党の選挙協力が成立した影響があると考えられます。

 昨年の安保法制をめぐる一連の騒動をきっかけに、野党4党は協力関係を醸成してきましたが、これを後押ししたのが学生団体SEALDsや市民団体でした。

 SEALDsは従来のデモ活動と一線を画した、ラップやコールを交えた街宣活動を行い、注目を集めました。今回の参院選でも、SEALDsの中心人物である奥田愛基さんらが応援演説を行っていました。

 では、SEALDsの出現は、政治離れが著しいと言われている日本の若者を突き動かしたのでしょうか。残念ながらNoと言わざるを得ません。特に今回新たに選挙権を得た10代では、自民党に投票した人々が最も多いという出口調査が出ているようです。

【参院選】18、19歳の投票傾向は自民党が40%でトップ 民進党は全世代より低調 - 産経ニュース

 

 なぜSEALDsは若者の心を動かさなかったのでしょうか。私は大学生なので、なんとなく同年代の心情を慮ると、SEALDsが「意識高い系」の典型に見えたのでしょう。

 多くの大学生は、社会人や中高生より有り余る時間を使って、遊びにサークルやバイトに精を出してるものです。そんな中、政治や安保活動などというお堅いテーマを勉強している団体というのは、大学生の中で異質な存在になってしまうのは、致し方ないのでしょう。

 私のSEALDsに対する印象というのは、「立憲主義を壊すな」という主張に代表されるように、教科書通りの主張をしているので、学問的には正しい主張をしている団体という印象です。

 これがよくなかった。多くの「普通の学生」にとって、彼らの主張は背伸びしているようにしか見えなかったのです。

 どんなに理論的には正しい主張をしていても、対象とする人々(ここでは若者)の心に響かなければ、政治運動としては失敗なのです。 

 彼らの主張に耳を傾け注目したのは既成政党や、かつてのデモ運動(彼らにとっての青春時代)を忘れられない一部の大人たちでした。

 しかし、現実の政治においてルールを設定する立場にいるのは大人たちです。団体が大きくなり発言力を増せば、それに群がる汚い大人たちの餌食になってしまうでしょう。

 SEALDsの中でも、リーダー層にいる一部の人々は(学術であれ政界であれ)自分のキャリアパスに、SEALDsの活動をうまく利用したのではないでしょうか。

 SEALDsそのものは8月15日に解散してしまいますが、その活動に共感し、後から活動に参加した「意識高い系」の人々は今後どうするのでしょうか。

 真面目であるが故に、政治活動にのめりこみ、大人たちに利用され使い捨てされるのが関の山では。

「恐怖」とは。 

 「恐怖」の正体とは一体なんでしょうか。恐怖には様々な種類がありますよね。例えば、地震とか戦争や病気など、生命に危機を及ぼす事象などです。他にも奥さんが怖いとか上司が怖いとか、人間関係にまつわるものなどは、わりと通常の生活で感じやすいですよね。

 

 なぜ突然、このような哲学的()なことを言い出したかというと、選挙における投票率の低さと「恐怖」に少しばかり関係があると考えたからです。

 私たちは「恐怖」という感情について、上記のようなイメージを持つことが多いと思います。その場合、「恐怖」の大元には、「わからない」という感情が影響しているのではないでしょうか。

 違った言葉を話す人々や、意味の分からない難しい言葉を使う人って、自分にとって味方なのか敵なのかわかりません。

 言葉の意味がわからない以上、どのような行動を起こすかも未知です。状況によっては、危害を加えてくるかもしれません。

 地震などはいつどこで起きるかわかりません。不確定要素というのは恐ろしいものです。

 

 今回の参議院選挙は開票結果が完全に出ていないので、断定はできませんが投票率が微増するかもしれません。しかしながら、投票率の低下傾向に歯どめを掛けるほどにはならないと思います。

 なぜ、私たちは投票に行かなくなってしまったのでしょうか?

 かつては、企業や業界団体のほか宗教団体など、自分の所属する組織の指示にそって投票した人が多く、特に考えずに投票した人々もいたと思われます。

 現代では、そのような組織からの投票依頼を気にしない人々が増え、その結果、投票率が低下したと私は考えます。

 では、投票に行かない原因とはなにか。それは政治家や専門家に「恐怖」を感じるからです。

 政治の領域で語られる、様々な課題というのは、どうしても一般の人には難しい内容となります。仕事や子育てに介護など、多くの有権者は多忙を極めています。そのような日常を送りながら、高度な政策や課題について調べることは容易でありません。

 そうなると、政治家や専門家が主張する政策などは、有権者が普段聞きなれない内容が増えます。すると、有権者から見たときに、政治家や専門家とは理解できない言葉を用いる人々ということになります。

 繰り返しとなりますが、「わからないもの」は怖い。それは同時に信用の欠如につながります。自分が一票を投じた候補者が、確実に良い政治を行えるのかは定かでありません。

 結果として、容姿や雰囲気などイメージを基準に判断することになります。あるいは政治に背を向け、投票に行かない人々も生じます。

 

 以上の私の検討は詰めが甘く、見直すべきところが多々あると思いますが、今回の選挙で投票した有権者の声に耳を傾けると、このように感じずにはいられませんでした。

 

 人生には「恐怖」は付きものです。地震や病気のリスクから逃れることはできませんし、いつ発生(発症)するかも予想できません。

 それでも私たちは「恐怖」から逃れることはできません。同じように、政治や政治の舞台(国会・議会など)で下される判断から、逃げることもできません。

 

 今一度、私たちは勇気をもって、「恐怖」と向き合わなければいけないのかもしれません。

ただ投票率が上がれば良いのか。

 一日中雨雲に覆われた昨日とはうってかわって、今日はよく晴れた日となりました。

 昨日は夕方までアルバイトだったのですが、22時からアルバイト先のみなさんとお酒を飲み始めて、朝の4時まで飲み続けてました。おかげで寝坊と二日酔いに苦しみましたが、親しい人と交わす杯はかけがえのないものですね。

 

 さて、本題に移りたいと思いますが、本日は参議院議員選挙です。すでに投票を済ませた方も多いと思いますが、どのようなテーマに着目して投票したでしょうか。

 経済、消費税、社会保障、子育て、安全保障…。すぐ思いついただけでもこれだけありました。メディアにおける扱いで言えば、昨年の安保法制に関連し、与党を中心とした改憲勢力が3分の2の議席を獲得するか否かに大きな注目が集まっているように見えます。

 また、今回の参院選から有権者の年齢が18歳に引き下げられました。政治への無関心が問題視されている現在ですが、果たして有権者年齢の引き下げは、政治への関心を拡大させる契機となるのか、今後の課題として検討する必要があるでしょう。

 

 やや前置きが長くなりましたが、タイトルにあるように「投票率が上昇すれば良いのか」について考えていきたいと思います。

 

 昨今の傾向として、我が国の国政選挙投票率は非常に低いと言えます。それに対し、多くのメディアや有識者と呼ばれる人から若者まで、多くの人々が投票率の低下を憂いております。

 主張の中身は様々で、特に投票率の低い若者に対して、投票率の高い老人世代の要望が採用されやすくなる「シルバー民主主義」を警戒する意見や、自分たちの未来をきちんと考えて選択するよう(いわゆる責任と義務を果たそうと)呼びかけるものなどが多いようです。

 代議制民主主義において、国民が政治家に対して権利を行使できるのは(手続きの簡単さから言っても)選挙しかありません。選挙で選んだ政治家が不祥事を起こした際には、次の選挙で件の候補者に投票しないことで、責任を負わせることができます。これは元大阪市長で弁護士の橋下徹さんがよく述べている主張です。

 これに則れば、前東京都知事舛添要一さんの辞め方というのは非常に問題があります。なぜなら、舛添さんが政治資金を流用しホテル三日月に行ったことなどは、一般人が思っている都知事像に反して非常に「セコく」見えたとしても、現在の政治資金規正法からすれば合法だからです。

 法に反した行いをしていないのに、メディアスクラムを背景とした世論の圧力に屈し、辞任せざるを得なくなったことは、世論や大衆というものの移り気の速さとその恐ろしさを垣間見たような気しました。

 舛添さんは2年前の都知事選挙有権者からの付託を得たのだから、次の選挙で落選させるか、都民から署名を集めリコールするなり、合法的な手段によって辞めさせるべきでした。無論、辞任という手続きは合法ですが、辞任に至る経緯に少し疑問を感じました。

 世論という法を超越した「力」によって、政治家が辞任する流れがエスカレートすると、政治家は常に世論の目を伺い、国民の一時の感情に左右されかねなくなり、政治というものは非常に流動化した、不安定なものとなってしまうのではないでしょうか。

 ここで私が重要視していることは、有権者が選挙で政治家を選んだ以上、投票した自らも責任を果たす覚悟をもたなければいけないということです。

 私たちは感情をもった生物です。うれしいことがあれば喜びますし、悲しいことや怒りにその身を震わせることもあるでしょう。政治という営みに対しても、国民の心をつかむカリスマ性をもった人に、一時の感情で1票を投じることがあると思います。感情を否定するわけではありませんが、私たち有権者も、冷静に判断するリテラシーを身につけなくてはいけないのではないでしょうか。

 爆発的な人気を持った人物が登場したり、世論の追い風は発生した時などは投票率が向上するでしょう。しかし、当選後にその政治家や政権が、想定以上のパフォーマンスを発揮できなかったり、失策を重ねるようなことになってしまえば、元も子もありません。

 代議制民主主義を正しく機能させるためには、有権者が個別の政策課題を検討し、選挙のたびに候補者の業績や活動を判定することが重要になります。専門知識のない国民が、仕事や育児などで忙しいなかで、政策の勉強をすることは難しいでしょう。けれども、政治や社会に何らかの不満や要望を持っているならば、選挙という機会を無駄にしないでほしいと思います。政治家に倫理観や高潔さを求めるならば、私たち有権者もそれに見合った責任を果たしていかなければいけないでしょう。

 自戒の意味も込めて申し上げれば、世間で広く受け入れられているありがたい言説の中には、ややもすると、選挙で1票を投じさえすればいいという風にも聞こえるようなお話もあります。大切なのは、投票に至る過程でしっかりと考えることです。

 社会に関わるという気持ちをどうか捨てずに、多くに人々が政治に関わっていくことに期待を込めて。

 

 

 

民進党はオワコンか。

 

 こんばんは。

 数日ぶりに思ったことを書こうと思います。

 

 参院議員選挙の投票日まであと3日となりました。事前に投票を済ませた方も多いのではないかと思います。

 

 私は10日にお祖母ちゃんと投票に行こうと思ってます。毎回、投票帰りに近所のケーキ屋さんで、チーズケーキを買ってもらうのが恒例の楽しみとなってます笑

 

 

 さて、今回の参院選、いったいどこの政党に投票しようか迷ってます。元々、憲法改正には賛成でしたが、国民の中で憲法改正を求める声が少ない現状では、改正すべきでないと考えています。なので、自民党をはじめ憲法改正に賛成している政党には、投票しないつもりです。

 

 比例区は様々な選択肢が示されているのでまだ良いのですが、問題は選挙区です。私の住む千葉県では自民・民進が2人ずつ候補者を擁立しています。他にも共産党や日本の心を大切にする党などが候補者を擁立しております。

 

 意中の党としては、民進党ということになるのですが、問題は民進党が今後、政権を再び担いうる政党に復活できるかということです。

 民進党旧民主党時代の2013年の参院選では17議席の獲得にとどまり、惨敗しました。今年初めに維新の党と合併しましたが、依然として党政は低迷したままです。

 そんななか、岡田克也代表が、与党に3分の2の議席を取らせてはいけない、という発言がありました。  たしかに改憲を阻止するとすれば、理論的には3分の2を取らせなければ良いのです。が、政権を目指すのであれば、やはり野党で過半数獲得を目標にすべきでしょう。

 

 自民党が2012年の総選挙で政権を奪還して以降、対する民進党(民主党)は失った人心を回復するに至っておりません。かつての民主党は、労働組合という強力な支持団体の組織票と無党派による「ふわりとした民意」を元に党勢を拡大してきました。加えて、小沢一郎が代表についた2006年以降は、小泉改革によって自民党から離れた農業団体など、地方からの支持を調達することに成功しました。その結果、2007年参院選において当時の与党を過半数割れに追い込み、ねじれ国会を実現。2009年の総選挙では政権を奪取するに至りました。

 

 ところが3年半にわたる民主党政権は、米軍基地の普天間から辺野古への移設問題や尖閣諸島沖の中国漁船衝突、東日本大震災原発など、様々な問題への対応力不足が露呈し、国民からの支持を大きく失いました。

 おまけに消費税増税をめぐる政局で離党者が相次ぎ、政党としての体力が大きく削がれました。

 

 結果として、現在の民進党内では労働組合の組織内候補や支持を受けた議員でないと当選することが難しくなっています(山尾志桜里衆議院議員のような例外もあります)。

 

 そのような状況下で、上記のような岡田代表の発言は民進党の旧社会党化を象徴するような発言のように感じました。

 旧社会党は、1963年の総選挙以後、衆議院の過半数以下の候補者しか擁立しませんでした。選挙資金の不足など現実的な問題もありましたが、「55年体制」の下で、国会対策委員会を中心とする与野党の談合政治によって、野党の要求が受け入れられたことや、政権に反発したというポーズを示すだけで満足し、次第に政権交代を本気で目指すことはなくなってしまいました。

 

 高度成長と冷戦という日本にとって安定した状況下では、自民党が常に政権の座にいることに大きな問題はありませんでした。中選挙区制のもとで、派閥による政党内政権交代もありました。

 しかし、1994年の選挙制度改革の結果、自民党内の政権交代の可能性が減少した以上、自民党に代わりうる政権担当能力を持った政党の出現が望まれています。かつての新進党から民主党に連なる政党の合従連衡は、その流れを汲んだものでした。その成果として2009年に政権交代を果たした民主党でしたが期待が大きかった分、有権者からの目は依然として厳しいままです。

 

 現在の民進党には労働組合や組織票が望める業界団体からの支持を維持したまま、無党派層からも支持を調達できる中道(中道左派)政党として党勢拡大に努めていただきたいのですが、岡田代表が上記のような発言をする現状では、難しいと言わざるを得ません。

 

 

 投票日まで時間がありませんが、なんとか自分の考えの近い候補を見つけ、投票したいと思います。

 

 

『保守主義とは何か』(宇野重規・中公新書)を読んでみて。

 そういえばこないだ、中公新書から発売されたばかりの『保守主義とは何か』という本を読みました。著したのは、政治哲学や政治思想が専門で、東京大学社会科学研究所教授の宇野重規先生です。

 

 かの有名な、エドマンド・バークから始まったといわれる保守主義。近年、国際環境の激変や、我が国の政治の右傾化などから、なにかと話題を集める保守主義ですが、意外とその概要について知らない人が多いのではないでしょうか。

 

 きっとそれは、日本を取り巻く政治状況の特異性によるのではないでしょうか。

 

 説明するまでもありませんが、日本における保守主義というものは、非常にあいまいです。保守を自認する人々の中には、大東亜戦争(太平洋戦争)を是とする勢力や、はたまた戦後の秩序を認めアメリカとの同盟関係を絶対視する勢力などがあります。

 

 どの時点における保守なのか、主語を明記すれば以上の問題の多くを落ち着くように思えます。たとえば、「戦後保守」のように。

 

 この本でも紹介されている、福田恒存は「私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない」と述べています。この主張は、実は多くの日本人から共感を得ることができるのではないでしょうか。

 

 革命的な変革は望まないが、漸進的な改革を望む人々が多いからこそ、3.11以後も原発政策の基本的な維持を掲げる政党を支持したことなどは、その現れではないでしょうか。

 

 この保守的(というか、のんびりしたよう)な態度は、島国である日本では大切な態度でありましょう。基本的に国外に出ることが難しかった私たちは、急激な変革よりも個人が我慢し協調することで公共の秩序を維持してきました。

 

 私はこの日本人の基本的な態度が好きです。そういう意味では私もれっきとした「保守的人物」と言えるのでしょう。

 

 しかしながら、問題を先送りし、責任を不明確にすることが多い現代の日本社会には、大きな疑念と失望を覚えずにいられません。